佐藤亜紀「鏡の影」−平野啓一郎「日蝕」問題に関して

有名人のtwitterをあちこち見学していたら、作家の佐藤亜紀が自作の「鏡の影」と平野啓一郎の「日蝕」のプロットの類似性を表にして自身のブログで公開していたことを知る。 大蟻食の生活と意見 @berohashi氏の質問に答えて


<大蟻食の生活と意見 13「バルタザールの遍歴」絶版の理由>は何年も前に見ていて、全体の出来事が「藪の中」みたいだなと感じていた。
 http://home.att.ne.jp/iota/aloysius/tamanoir/idata/iken13.htm
この件に関しては、 
1・平野啓一郎は「鏡の影」のプロットを借用あるいは参考にして「日蝕」を書いたのか。
2・「鏡の影」が絶版になったのは、平野啓一郎の「日蝕」と関係があるのか。
以上の2点が問題となっていたが、真相は平野啓一郎と新潮社でこの件に関わった人以外にはわからないので、第三者はあれこれ想像するしかない。


ネット上では色々な意見が飛び交っているようだが、1の点に関して論点を整理してみた。

日蝕」パクリ疑惑の要点整理

佐藤亜紀の主張。「「鏡の影」第10章から第15章までのプロットが「日蝕」全体のプロットとほぼ一致している。」
論点1。上記佐藤亜紀の主張は妥当か。
論点2。佐藤亜紀の主張が妥当であった場合、それは何故か。
 a.偶然似ていただけ。
 b.平野啓一郎が「鏡の影」を元ネタにして「日蝕」を書いたから。
平野啓一郎自身は、「鏡の影」を読んでいないと主張しているのでその発言が真実ならaということになる。
(論理的な可能性としては「鏡の影」と「日蝕」、ともに元ネタとなる作品があり、「日蝕」はその作品のプロットを借用したというケースも考えられるが、その説はここでは除外しておく。)
論点3。「鏡の影」第10章から第15章までのプロットが「日蝕」全体のプロットとほぼ一致している、という佐藤亜紀の主張が妥当である場合。
このようなプロットの類似性は一般的によくあるケースなのか(この2作品のプロットの類似性は偶然似ただけのレベルなのか)。
それとも、偶然ここまで似たプロットのものはできないだろうというレベルのものなのか。
前者であるならば、平野啓一郎の「鏡の影」を読んでいないという主張は信憑性を増す。
一方、後者であるのなら平野啓一郎が嘘をついている可能性が高くなる。
ただし、めったにおこらないことがおこった可能性もゼロではないから、仮に後者であってもそれによって平野啓一郎が「鏡の影」のプロットを借用したと断定することはできない。
論点4。既存の作品のプロットを借用することは盗作といえるのか。
佐藤亜紀本人は、プロットの借用はパクリではあっても盗作とはいえないとして、パクリと盗作をわけている。
私自身もこの考えに賛成だが、人によってはプロットの借用も盗作だと考えているかもしれない。


以上の点から次の見解が想定できる。
○見解A
「「鏡の影」第10章から第15章までのプロットが「日蝕」全体のプロットとほぼ一致している。」という佐藤亜紀の主張は妥当ではない。
○見解B
「「鏡の影」第10章から第15章までのプロットが「日蝕」全体のプロットとほぼ一致している。」という佐藤亜紀の主張は妥当である。
だが、この2作品のプロットの類似性は偶然おこりうるレベルのもので、平野啓一郎が「鏡の影」のプロットを借用した可能性は低い。
○見解C
「「鏡の影」第10章から第15章までのプロットが「日蝕」全体のプロットとほぼ一致している。」という佐藤亜紀の主張は妥当である。
また、この2作品のプロットの類似性は偶然似たというレベルを越えている。
ただし、めったにおこらないことがたまたまおこっただけであり、「鏡の影」を読んでいないという平野啓一郎の発言は真実である。
○見解D
「「鏡の影」第10章から第15章までのプロットが「日蝕」全体のプロットとほぼ一致している。」という佐藤亜紀の主張は妥当である。
また、この2作品のプロットの類似性は偶然似たというレベルを越えている。
平野啓一郎が「鏡の影」のプロットを借用した可能性は高い。
見解Dの1 ただしプロットの借用はパクリであっても盗作ではないので、「日蝕」は「鏡の影」の盗作ではない。
見解Dの2 プロットの借用も盗作といえるので、「日蝕」は「鏡の影」の盗作である可能性が高い。

感想

私自身は両作品とも読んでいないので、論点1と論点2についての個人的な見解を述べることはできない。
また論点3についてなにか論じられるほどの文学的知識もない。
ただ、「鏡の影」第10章から第15章までのプロットが「日蝕」全体のプロットとほぼ一致している、という佐藤亜紀の主張が妥当であり、かつそのプロットの類似性が「偶然似たレベル」を越えているのだとしたら、この件に関して佐藤亜紀が新潮社に対して抗議をするのは当然であるし、平野啓一郎や彼のファンおよび第三者が佐藤亜紀を非難するのは筋違いといえるだろう。
一方、プロットの類似性が「偶然似ているレベル」「この程度の類似はパクリでなくてもおこりうるレベル」であるのなら佐藤亜紀が過剰に反応したと解釈することもできる。
真相が見解Cのものだったなら、佐藤亜紀平野啓一郎、両者の言い分がそれなりに妥当性があることにはなるが。

プロットの借用問題に関して

プロットの借用や類似性の問題に関しては以下のような見解が想定できる。
○見解1
プロットの借用は盗作とはいえないから自由にやってよい。
○見解2
プロットの借用は、借用したことを公言した場合は問題とされない。
この場合、偶然プロットが類似していた場合はどうするのかという問題が生じる。
また、意図的に借用したとしても、本人が借用していないと嘘をつく可能性もあるから、元ネタとされた作者との間でトラブルが生じるケースも想定できる。
○見解3
プロットがほぼ同一である場合は、借用か偶然の類似かにかかわらず盗作とみなす。
ただし、プロットの似た作品はゴマンとあるから、「ほぼ同一」であるかを、誰がどのようにして判定するのかという問題が生じる。


文章を丸々写した場合は盗作とみなされるが、プロットの類似性は偶然か意図的か第三者には判定できないし、この問題に関して明確なルール・取り決めがあるわけではないのだろう。
業界的には、借用したとされる側が大物・売れっ子で、元ネタとされた作者が売れっ子でない場合は黙殺される。
一方、元ネタとされた作者が大物・売れっ子で、借用疑惑のかかった側が売れっ子でない場合は問題とされる、というダブルスタンダードなんじゃないかという気がする(根拠のないただの推測にすぎないが)。


1つの案としては、元ネタと思われる作者から抗議があった場合、同様のプロットの作品が既に存在していたことを書籍のどこかに明示しておく、これを業界の慣習にすればいいのではないかという気がする。そうすれば、偶然の類似か意図的な借用かを読者が読み比べて判断することもできるし、悪質なパクリの防止にも効果があるような気もする。(出版関係者からは否定されそうな素人考えではあるけれども)。